初めに学びと教えありき。
無藤隆
以前にも書いたことがあるが。
初めに学びありき、という(私はその標題の著書には感銘を受けた、実践に関わる教育書の白眉とも言えると思う)。それはしばしば子ども中心主義という流れの中で語られ、今でも強調される。保育の世界ではなお強い発想だろう(業界全体では少数派にしてもいわば理屈として)。
私はそれに対して、初めに学びありきというのはまったく同時に、初めに教えありきなのだと捉える。それが、共主体性(co-agency)ということだと考える。
ただ、重大な条件がある。
初めに学びという時の「学び」は学校教育に限定されたものではなく、むしろ、人間が持つ学びへの傾向を指すことが多いようだ。それが学校教育でも生かされるべきだというところでも、その学びとは今の多くの学校の教室での実践より遙かに広がりがあり、生活との地続きで捉えている。
だとすれば、同様に、初めに教えという時の「教え」も人間が持つ教えへの傾向から発し(その実証はまだ少ないが発達心理学の中で少しずつ検討され始めている)、さらに学校教育でもその教えをいかに広げるかが課題となる。
その課題は端的に言えば、学ぶ側からの反論・疑問・戸惑いを提出し、教える側が常にそこに開いていけるかどうかということではないか(レッジョ・エミリアで言う「傾聴のペダゴジー」がそれかもしれない)。もちろん、成る程と思い、そうだなと感じ、それを学ぶこともあるだろうが、そうでないことも許されるのである。
進化的な想像を働かせれば、年長者に教わることやそれをモデルとすることは多いだろう。そこに年長側の意図的な教えがあったり、なかったりもするだろうが、大きく社会的な構図の中で言えば、子どもが学ぶことには対応して大人(年長者)側の教えが随伴しているはずである。子どもが問う、大人が答えるということや、大人が示し、子どもが身に付けるという両方の流れがともに起こるはずである。
学びが社会的であるなら、そこで起こる相互作用は子どもと大人が共に学び合い、教え合う関係である。肝心なことは、学びを広げ、同時に教えを広げることにあると思うのである。
以下は生活科に応用できそうだな。
応用ってよりも、そのまま同様に環境をつくることでできるかも!
保護者へ起こっていることを伝える…これって自身がどんな風に環境をつくったか(願い)伝えられる。
エスノグラフィーの部分にもかかってくるけど…子どもの姿、関わり、環境をつくる それぞれを分析したいよね。
無藤隆Fbより
2019.9.15
園庭の半分がビオトープ。
園の庭の半分がふつうの遊び場で半分がビオトープというところを見学しました。数年くらい前かららしく、すっかり遊びが定着し、子どもが適宜探索しています。希望する保護者も増えたそうだ。紹介のお便りもたくさん。子どもの観察の絵も丁寧で細やかで微妙に一人ずつ違う。
この視察していただいた園のビオトープは、浜松のビオトープ施工管理士の吉田順子さん(エコ・プランニング)の指導の下に創られ、維持されてきたものであることを付け加えておきます。